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奥武蔵の風に吹かれて NO.015 慈雨 2001.4.30


 待ちに待った雨。「やっといいおしめり」が降っている。近頃、こんな挨拶言葉のあまり奥武蔵でも聞かれなくなったが、季節感が日常生活の中で当たり前に生きていた時代が確かにあった。

 この春、関東は本当に雨が少ない。荒川源流もそうだが、河川水量の少なさはそのまま夏の水不足に繋がる。何よりも、この時期一番水分を欲している、育ち盛りに木々や草々にとって雨の量は死活問題となる。その意味で、今朝の緑は嬉しそう。庭から望むイチョウ、カキ、ウメ、サクラ、モミジ、ボタンキョウなどの若葉の瑞々しさといったらどうだろう。家族にはいつも口うるさく言われるのだが、その都度「むやみに木を切ってはなりませぬ」といって延び放題にしている。おかげで庭の木々はどれも大きく成長。この季節、我が家は様々な緑色を仰いでいる。

 木に対し、そこはかと無い愛着を持っている。特に生態的に関心が高いわけではなく、もっと感情的、精神的なもの。木肌に触れ、木に囲まれているだけで安心感がある。まるでそれは母の胎内、羊水に包まれた胎児でもあるかのように・・・

 ことに楠に対しての愛着は強い。勢い余って娘の名にしてしまったほど。昨秋はとうとう、庭の一角に植えてしまった。末代まで切ることならぬ、我が家のご神木候補として。

 その楠の芽吹きが遅れている。もうとっくに開いても良いはずなのに。何とか活着してくれると良いのだが。かといってまめに世話をする訳ではない。時々語りかける程度で、後は自然任せだ。もとより、手に負えるような代物ではないが。

 活着と言えばもう一つ。昨春、ご近所の家を解体、庭も更地にするというので、植えられていた、そこのオババ縁のフジを戴いてきた。工事を請け負っていた土建屋の八蔵さんに頼み込んで、ユンボで一気に引き抜いて貰った。一抱えもある根元から、バリバリっと。ほとんど根のないような状態で、我が家の庭に移植したのだが、そのまま、何喰わぬ顔で居着いてしまった。この春も、葉が見る見る成長。花を付けるまでそう時間はかからないだろう。本当に強い。

 フジは藤だが、不二、富士に通じ、そして不死にも通じる。先人の命名に対する豊かな感性を再認識させられる。


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